日吉台地下壕見学
 
* 本日の卓話は戦争遺跡保存全国ネットワーク、日吉台地下壕保存の会副会長新井様よりお話を伺いました。
* ここには旧海軍連合艦隊司令部が置かれ前線へと指令が送られていました。
* 特攻隊や沖縄戦の指令もここから出されました。
* その後、日吉台地下壕を見学しました。過去の歴史を振り返ると共に、戦争の悲惨さを感じ取る事ができました。

■ 日吉に来た海軍

 初めて日吉に海軍が来たのは軍令部第三部で、1944年3月、慶應義塾大学日吉キャンパス第一校舎に入り、敵国情報を収集分析していた。
 同年7月にサイパン島が陥落すると、日吉台国民学校も学童疎開を余儀なくされ、学校は子どもたちが出て行った後に海軍省人事局功績調査部が入り兵舎にかわった。
 次いでそれまで慶應の学生が使っていた寄宿舎が連合艦隊司令部として使われ、後を追うように海軍省人事局・航空本部の地下壕が構築されていった。
 45年の1月になると艦政本部地下壕が掘られ、日吉の街は海軍の軍人や軍の施設を作る作業員がきて、さながら軍都の様相を呈していった。
 軍隊が来ていたからか日吉の街は三度にわたる空襲の被害を受けた。


■ 連合艦隊司令部

 戦況が悪化する中で連合艦隊司令部が旗艦大淀から慶應義塾日吉キャンパスにある学生寮に入ったのは1944年9月29日であった。
 司令部地下壕はまだ建設中で、一部使用可能になったのは11月になってからであった。
 10月には「台湾沖航空戦」「レイテ沖海戦」、45年4月6日の戦艦「大和」の出撃命令などはこの日吉の司令部から発せられたのだ。

(日吉台地下壕保存の会ホームページより引用)